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黎明期
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「富士宮スケートクラブの誕生」。温暖な岳麓富士宮市でも北部寒冷地朝霧高原では冬季零下10度以下になる日もあり、市内唯一の天然氷となる田貫湖で近隣の人たちが以前より下駄スケート等で滑り楽しんでいた。終戦後、旧満州から引揚者の中で滑走技術の高い人が時々見かけられ、昭和20年代後半には靴スケートの普及にもより、次第にスケート熱が高まり、田貫湖よりも早く結氷する富士五湖の内、精進湖、河口湖、山中湖には年末ころよりスケート愛好者が通うようになり、スケート人口が増えだした。そのころ富士宮市内のスポーツ店による市民スケート大会が2月、田貫湖で催され、昭和30年代に入ると冬季のレクリエーションとして若者たちや、家族づれでスケート人口が急増、市内の各スポーツ店はもちろん県内外から休日ともなればスケートバスを連ねて結氷した富士五湖に集中した。昭和33年冬、富士宮、富士地区のスピードスケート愛好者が集まって精進湖でスケートを楽しんでいる中で、スケートクラブ発足の気運が高まり、富士宮スケートクラブを発足し、山川工業㈱(現、ユニプレス㈱)勤務の八木敬、佐藤辰夫両氏が県スケート連盟に出向き、加入登録し、承認された。また、富士宮市体育協会には昭和35年に加盟、当時の役員は会長、藤田博氏(現、県ス連顧問)、副会長、故 小田欣三氏(陶芸家、帰山)、事務局、故 吉沢二郎氏(スポーツプラザ十字屋)であった。当時のクラブ員の氷上練習または合宿先は、精進湖で静岡県の合同合宿及び県大会は長野県の蓼科湖と白樺湖で年末年始を利用して行われた。昭和35年第15回静岡県大会が長野県の蓼科湖で開催、富士宮スケートクラブが第1回目の参加となり県総合3位という予想以上の成績をおさめた。特にこの大会で入賞した稲葉繁氏が昭和35年度、長野県松本市、美鈴湖で開催の第15回国体に富士宮市からのスピードスケート県代表選手としての初参加となり、翌年の第16回、軽井沢国体には稲葉繁、八木敬、上杉重郎の3氏が出場した。昭和36年藤田会長のご尽力により、全日本上位選手、井出正人氏(専修大学、長野県出身)が東京製紙㈱に、翌年斉藤輝道氏(日大、北海道出身)が山川工業㈱にそれぞれ入社し当時の静岡県のスピードスケートのレベルアップ、そして富士宮スケートクラブを盛り上げてくれました。特に井出氏は翌年の昭和37年2月長野県諏訪市郊外、蓼の海天然リンクでの第1回全日本実業団スピードスケート選手権大会、1500メートルにおいて、オリンピック出場選手や当時の全日本トップ強豪選手を多数を破って優勝、地元選手たちに刺激を与え、その後の県大会成績は上位常連となり、静岡県の中核を担うようになった。


富士宮スケートクラブ創立時の年末年始
白樺湖合宿(昭和36~37年)

屋外人工400メートルのアイススケートリンクの出現と閉鎖
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昭和30年初期までは湖や池等での天然結氷したリンクでのスケート競技大会であったが、全国的にレジャー産業の進出によりスケート熱が高まりスケート人口が急増、そして人工パイピングリンクによる公認400メートル屋外スケート場が近隣県各地に出現した。早くは神奈川県箱根駒ヶ岳山頂に屋内リンクと併設した屋外400メートルスピードスケートリンクが創設、その後箱根強羅国際スケートセンターが新設されたが現在は閉鎖。長野県では昭和36年に屋外人工400メートルアイススケートリンクによる初めての第16回冬季国体スケート競技会が軽井沢スケートセンターで開催された。(長野冬季オリンピック)、400メートルスピードスケートリンク、(エムウェーブは屋内リンク)近年では、岡谷市、茅野市にも屋外400メートルアイススケート場がオープンしている。山梨県では昭和36年冬、富士吉田市にある富士急ハイランド屋外400メートルアイススケート場が開設、その後富士スバルランドスケート場がオープンしたが現在は閉鎖、現在、小淵沢に、いこいの村400メートルスピードスケート場がオープンしている。静岡県内では現在まで公認400メートルアイススケートリンクはないが、早くは須走に富士高原アイスパークスケート場があり、昭和40年代に入って御殿場市に小田急ファミリーランド内にアイススケート場が開設、変則リンクであったが県民スポーツ祭、並びに、ジュニア大会が開催されていたが現在はそれぞれのスケート場は閉鎖した。昭和48年裾野市須山に日本ランドHOWゆうえんちの中に開演と同時にアイススケート場がオープンした。富士宮市内では昭和42年11月に朝霧高原グリーンパークに外周200メートルのアイススケート場がオープンした。昭和43年2月第1回富士宮市民スケート大会が開催され昭和62年にスケート場が閉鎖まで、引き続き市民スケート大会を継続、選手の練習場でもあった。グリーンパークスケート場が閉鎖のため、それ以降現在まで市民スケート大会及び選手の練習は日本ランドHOWゆうえんち、(現、㈱フジヤマリゾート。ぐりんぱ)アイススケート場で行っている。


第1回富士宮市民スケート大会
於 朝霧高原グリーンパークスケート場

成長期と市民スケート大会
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昭和40年4月富士宮スケートクラブの組織の再編により、富士宮スケート連盟(現、協会)として新体制で再出発した。新会長、新井文雄氏(新井外科医院)、副会長、井出正人氏(東京製紙㈱)が中心となり環境に恵まれた市民のスケートスポーツを育て上げようと、第1回富士宮市民スケート大会が昭和43年2月25日、市制25周年記念大会として、既にオープンしていた朝霧高原グリーンパークスケート場において500人余の市民を集めて盛大に開催した。その後毎年度市民スケート大会が行われ、第1回の富士宮市民スポーツ祭スケート大会は昭和56年2月8日、第14回市民スケート大会と並行して開催現在まで続いている。

市内のスケートクラブとスケート部の発足と活躍
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1、一般のクラブと会社スケート部
富士宮スケートクラブ誕生発足当時には、山川工業スケート部、昭和36年東京製紙スケート部、昭和40年代に入って朝霧高原グリーンパークスケート場開設と同時期に猪之頭、白糸各地区のクラブ、オーミケンシ㈱富士宮工場スケート部がそれぞれ発足したが、現在はみんなその名をとどめていないが、当時現役選手として活躍した人たちでは、山川工業の八木敬氏は昭和36年、第16回、昭和37年、第17回、2回の国体出場、斉藤輝道氏は昭和38年度より連続4回の国体出場、東京製紙より出場の井出正人氏は昭和37年度より4回の出場をしている。井出、齊藤両選手は全日本選抜、全日本スプリント選手権、全日本選手権、全日本実業団選手権等日本スケート連盟主催の各大会にシーズン中、各地を転戦した。オーミケンシ富士宮工場スケート部では芦沢勝昭氏(現、会長)が昭和38年2月、富士急ハイランドでの第2回全日本実業団選手権大会に出場、女子では平京子(青森県出身)選手が昭和51年度大会31回栃木県日光市開催の国体より連続4回の出場を果たした。

2、北山地区体育振興会スケート部
朝霧高原グリーンパークスケート場開設以来、富士宮北部北山地区でもスケート人口が増え、昭和48年ころより北山小、中学生の間にもスケート愛好者が急増、昭和49年9月北山地区体育振興会スケート部が発足した、その陰には当時の加納小学校長、理事として北山小学校教諭であった、田中武先生の強力なバックアップもあって、昭和50年2月正式にスケート部として承認された。発足時の役員として部長、石川行男氏、顧問、田中武先生、コーチ、渡井正敏氏、その後代々の部長、コーチたちの指導と父兄の協力によって全盛期には100名余の部員を擁した。市民スケート大会では第1回から第7回までは、グリーンパーク近隣の猪之頭、白糸、上井出地区の小、中学生が上位を多数占めていたが、第8回大会から今日まで北山スケート部の小、中学生が上位を独占するようになった。又県大会、県民スポーツ祭、ジュニア大会で上位入賞者を占めるようになり、富士宮に北山ありと言われるようになり、県民スポーツ祭、都市対抗得点で富士宮市優勝に大いに貢献した。又、全国大会にも多数の北山スケート部所属の選手が出場している中で特に全国中学生大会スピードスケート競技会が平成3年2月5日岩手県盛岡市開催の第11回大会で小松奈央(北山中、3年)が女子500メートルに出場、46秒81の記録で第6位に入賞、静岡県下中学生女子として初めての入賞となった。朝霧高原グリーンパークスケート場が閉鎖、日本ランドHOWゆうえんちアイススケート場に氷上練習が移り、スケート部員数が次第に減少していった。

3,富士宮北高スケート部の発足と高校生たちの活躍
富士宮北高校に進学した中学生スケート選手や愛好者は同好会を発足させ、コーチとして渡井正敏氏(山川工業㈱)が中心となり活動、各大会に出場、実績を積み上げる中で富士宮スケート連盟、新井文雄会長、井出正人副会長のご尽力によりスケート部として昇格、スケート部が昭和49年に部として発足した。高校総体には毎年のように選手を送り出し、国体選手としては昭和49年北海道札幌市真駒内での第29回大会に渡辺巧選手が初出場、その後松本広、山梨省造、伊藤睦男の各男子選手、女子では昭和55年北海道苫牧市開催の第35回大会に滝和代選手が初出場、その後佐野仁美、小松浩美、塩谷陽子の各選手が出場した。富士宮北高スケート部以前の北高OB選手では昭和46年度青森県八戸市開催の第26回国体に竹川忠氏(現、理事長)が初参加している。その後、生駒猛、後藤三州、両氏が出場している。富士宮北高選手以外の国体出場者は昭和55年度第35回大会、鈴木文利(吉原商)第36回大会、朝日美仁(宮農)第31回大会、主田芳章(東海大工)、日大三島高校生では昭和42年栃木県日光市開催の第22回国体に池田敏雄選手が初出場その後、塩谷宜史、鈴木勇人、小松顕二郎の各男子選手、女子では第47回大会から小松奈央、佐野智子の両選手、男子、女子共1年生時より3年生まで連続出場している。また藤巻拓郎選手(静岡中央高)は平成10年度第53回大会から55回大会まで連続出場を果たしている。国体出場選手の中で多くの入賞者を出している中で平成5年1月、青森県八戸市で開催の第48回大会に鈴木勇人選手(日大三島高、3年)が1000メートル決勝に進出、1分17秒40のタイムで第3位に入賞、表彰台に上がった。翌年の群馬県伊香保町第49回国体でも青年男子1000メートル、1分15秒37のタイムで連続第3位入賞を果たしている。

現在までの冬季国体スピードスケート競技会、富士宮市出身、所属選手の入賞者
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昭和39年度第19回大会、一般男子、2000メートルリレー、第5位、井出正人(東京製紙)、斉藤輝道(山川工業)、昭和57年度第37回大会、少年男子、2000メートルリレー、第7位、鈴木文利(吉原商高)、昭和61年度第41回大会、少年女子、2000メートルリレー第8位、小松浩美(富士宮北高)、平成3年度第46回大会、少年男子、2000メートルリレー第6位、鈴木勇人(日大三島高)、平成4年第47回大会、少年男子、1500メートル、並びに。5000メートル、各第8位、同じく、2000メートルリレー、第4位の3種目、鈴木勇人(日大三島高)、同年、少年女子、2000メートルリレー、第7位、小松奈央(日大三島高)、平成5年第48回大会、少年男子、1000メートル、第3位、鈴木勇人(日大三島高)、少年男子、2000メートルリレー、第6位、小松顕二郎(日大三島高)、鈴木勇人(日大三島高)、少年女子、1000メートル、第6位、佐野智子(日大三島高)、少年女子、2000メートルリレー、第5位、小松奈央(日大三島高)、平成6年第49回大会、成年男子、1000メートル、第3位、鈴木勇人(大東文化大)、成年男子、B、500メートル、第5位、1500メートル、第5位の2種目、松本広(松本畳店)、少年男子、2000メートルリレー、第7位、小松顕二郎(日大三島高)、平成7年度第50回大会、少年男子、5000メートル、第6位、小松顕二郎(日大三島高)、成年男子、B、1500メートル、第5位、松本広(松本畳店)、成年男子、2000メートルリレー、第6位、鈴木勇人(大東文化大)、松本広(松本畳店)、平成8年度第51回大会、成人女子、A、3000メートル、第8位、佐野智子(大東文化大)、成年女子、2000メートルリレー、第5位、佐野智子(大東文化大)、塩谷陽子(小松製作所)、成年男子、B、1000メートル、第5位、1500メートル、第5位、2種目、松本広(松本畳店)、平成10年度第53回大会、成年男子、B、1500メートル、第7位、松本広(松本畳店)、平成16年度第60回大会、成年女子、2000メートルリレー、第6位、空岡陽子(旧姓、塩谷、主婦)。


薹51回国民体育大会冬季大会 スケート競技会
松本 広選手 1,000m決勝(中央滑走)

充実期と県内大会
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富士宮市の学生、一般所属選手の層の厚さとレベルの高さにより、県民スポーツ祭、ジュニア、選手権、スプリント選手権、各県大会が開催され優勝者は数多く枚挙できないが、県民スポーツ祭、市対抗の部では特に昭和54年度第33回大会により、昭和58年度37回大会の連続5回の優勝、平成4年度第45回大会により平成7年度47回大会まで3連覇を達成している。

平成14年度現在の県記録保持者
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中学男子最高記録
5000メートル、S(シングルトラック)、鈴木勇人(三中)、
中学女子最高記録
500メートル、小松奈央(北山中)、
高校男子最高記録
500メートル、D(ダブルトラック)、鈴木勇人(日大三島高)
1000メートル、D、鈴木勇人(日大三島高)
1500メートル、S、小松顕二郎(日大三島)
2000メートルリレー、S、鈴木勇人(日大三島)
2000メートルリレー、D、塩谷宜史(日大三島)、鈴木勇人(日大三島)。
高校女子最高記録
500メートル、S、小松奈央(日大三島)
1000メートル、D、佐野智子(日大三島)
1500メートル、S、佐野智子(日大三島)
3000メートル、D、佐野智子(日大三島)
2000メートルリレー、D、小松奈央(日大三島)。
静岡県最高記録
「男子」500メートル、S、小松顕二郎(関東学院大学)、500メートル、D、小松顕二郎(関東学院大学)、1000メートル、S、鈴木勇人(大東文化大)、1000メートル、D、小松顕二郎(関東学院大学)、2000メートルリレー、S、小松顕二郎(関東学院大学)、2000メートルリレー、D、鈴木勇人(大東文化大)、スプリント総合、D、153,535点、小松顕二郎(関東学院大学)。
「女子」。500メートル、S、小松奈央(日大三島高)、3000メートル、S、佐野智子(日大三島)、2000メートルリレー、D、小松奈央(日大三島高)、中総合、D、191,278点、佐野智子(日大三島)。

富士宮市スケート関係者各表彰の人々
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(財)日本体育協会、国体選手連続10回出場表彰者、1964年1月26日、斉藤輝道氏(山川工業㈱)。1、静岡県体育協会創立記念表彰贈呈者。45周年、1973年、10月26日、藤田博氏。50周年、1978年11月23日、芦沢勝昭氏。2、静岡県スケート連盟創立記念受賞者。30周年、昭和62年4月11日。功労者、藤田博氏、井出正人氏、芦沢勝昭氏。35周年、平成3年3月10日、特別功労者、藤田博氏。功労者、新井文雄氏、小林政勝氏。優秀指導者、佐久正司氏、佐野邦雄氏、竹川忠氏、鈴木弘昭氏。40周年、平成7年10月15日、功労者、佐久正司氏、佐野邦雄氏。優秀指導者、渡井正敏氏、生駒猛氏、主田芳章氏。45周年、平成12年4月9日、功労者、鈴木弘昭氏。優秀指導者、宇佐美正昭氏、朝日豊氏、松本広氏。平成17年10月30日、県ス連創立50周年記念受賞者、特別功労賞、芦沢勝昭。功労者、宇佐美正昭、朝日豊、渡井正敏、竹川忠。優秀指導者、佐野忠信、空岡陽子。

元会長、前会長の足跡
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元会長、藤田博氏。黎明期、富士宮スケートクラブ発足時の会長として、温暖な岳麓富士宮には無縁であった冬季スポーツの華、スピードスケートを今日の隆盛な基盤を固め地元に優秀選手の導入、普及振興に尽力、また、静岡県スケート連盟の副会長として会長を補佐し平成3年3月、静岡県スケート連盟創立35周年記念時に特別功労者表彰を受賞した。現在静岡県スケート連盟顧問。元会長、新井文雄氏。昭和40年静岡県スケート連盟会長として再出発。組織の基盤を固め連盟活動16年、優秀な選手を多く育てた名実ともに卓越した指導者であった。静岡県スケート連盟のスケート選手も年々増加、富士宮市の各地区にスケートクラブや一般のスケートクラブ、会社スケート部が続々と誕生、スケート熱の気運が高まる中で市民スケート大会を企画、昭和43年2月、第1回の富士宮市民スケート大会を朝霧高原グリーンパークスケート場において開催した。その後毎年企画開催された。昭和57年会長を退いた後富士宮市スケート連盟の顧問、相談役として、また富士宮市体育協会の副会長として長年ご尽力。平成6年2月1日急逝。前会長、井出正人氏。新井会長と共に、当初より連盟の副会長として組織作りと、選手のレベルアップに貢献、富士宮市スケート連盟会長には昭和57年6月から昭和62年10まで就任。県スケート連盟には役員として昭和50年頃スピード部長に就任、就任後昭和52年度より県選手権、ジュニア競技会、県スプリント選手権、3県大会を新設し選手強化を軌道に乗せた。その後県スケート連盟、副理事長として、県営アイススケート場建設の関連調査、陳情に尽力。現在の県立朝霧野外活動センター内、屋内アイススケート場を新設させた気運に大いに貢献している。現在、県スケート連盟、参与。

富士宮市スケート協会の現在
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井出前会長が昭和57年就任以来、富士宮市スケート協会の組織の基盤も固まり、優秀な選手も多く育ち昭和62年10月、成熟期を迎え第20回市民スケート大会を終了、井出会長が富士宮市を離れたため、芦沢勝昭理事長が会長に就任した。昭和42年より長年ホームリンクとして練習してきた朝霧高原グリーンパークスケート場が閉鎖となり、翌年度より日本ランドHOWゆうえんち(現、ぐりんぱ)内スケート場に移り、富士宮市民スポーツ祭スケート大会を会場提供してもらい現在まで開催している。冬季遠征地、厳寒での夜間氷上練習、スポーツの多様化により選手は減少しているが県ス連スピード部会競技力向上委員会の年間強化合宿、強化コーチたちの指導により、富士宮市出身の選手たちが大学スケート部に入部、大学選手権等で活躍、国体では静岡県代表選手として多数の入賞者を輩出している中で、関東学院大学に進学した小松顕二郎選手(北山中・日大三島高)は学生選手権等の活躍でスケート部、2部から1部昇格の立役者となっている。また大東文化大学に進学した鈴木勇人選手(三中・日大三島高)は群馬県伊香保町での第49回国体、1000メートルで第3位入賞を果たしている。同選手は大学選手権での成績により平成6年12月28日、29日、北海道釧路市で開催の第63回全日本スピードスケート選手権大会出場、有資格者として富士宮市出身として初出場した。

県立朝霧野外活動センター内にアイススケートリンクの新設
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平成8年朝霧野外活動センターに、県下唯一の県営アイススケートリンクが新設された。朝霧野外活動センターは昭和46年8月開催の第13回世界ジャンボリーのゲストハウスとして昭和44年に建設され、以来25年が経過し施設の老朽化が進み宿泊定員が100人と利用希望者に対して対応できなくなり平成8年6月宿泊定員も200人と全面改築、外観もドイツの城を模した建物となり、社会教育施設として生まれ変わった。その施設の中、多目的体育館の1Fに面積600㎡(20m×30m、公認リンクの1/3)のアイススケートリンクが新設された。市内民間リンクが姿を消してから10年振りであった。これより毎年度11月より翌年の3月までオープン、富士宮スケート協会所属の日本体育協会公認スケート指導員、日本スケート連盟公認準指導員の人達が各種団体、学校等の指導要望により、県ス連、普及部会の指導者と共にスケート指導を行っています。富士宮スケート協会独自のスケート指導は野外活動センター主催事業、スケート教室の主管指導をしています。昨今、小、中、高学生のスケート選手が減少の中このスケート教室を通じ1人でも多くのスピードスケート選手が出現することを願っています。現在、小、中学生のコーチとして、朝日豊氏、スケート教室チーフコーチとして、木ノ内伊吹氏が担当しています。

県スケート連盟新役員
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平成17年、18年度役員として富士宮市からは、市推薦理事、主田芳章。県ス連会長指名理事、松本広、空岡陽子。監査、芦沢勝昭。が決まった。県スケート連盟は平成17年度創立50周年を迎え、10月30日(日)、静岡市、東海会館において記念式典を施行した

平成17年度富士宮市スケート協会役員名簿
役員名
氏 名
会 長
芦沢勝昭
理事長
竹川 忠
副理事長
松本 広
事務局
宇佐美正昭


富士宮市スケート協会役員及び指導者