加盟団体

富士宮バスケットボール協会スケジュールはこちら

富士宮バスケットボール協会のあゆみ
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

 富士宮地域にいつごろ、どのようにしてバスケットボールが入ってきたのかははっきりした資料もなくわからないが、戦前の昭和16年ころには大宮高女(現富士宮東高)で行われていたのは確かである。当時は、バスケットボールとは言わず篭球と言われていた。
 富士宮市には、戦前から大宮農校(現富岳館高)、大宮高女、富士宮商工学校(現富士宮北高)の三つの学校があった。その中で、大宮高女には戦前から篭球部があり、対外試合にも出場して活躍していた。
男子校の富士宮商工学校に篭球部ができたのは、戦後の昭和22年ころであり、以来この両校に富士高校の卒業生も加わり富士宮地域のバスケットボールの普及が図られてきた。
 当時は、アウトドアーのスポーツでコートも自分たちでつくり、毎日ローラーを引っ張ってコートの手入れをしながら練習に励んだ。コートもそうだがバスケットボールは一般になじみの薄いスポーツで、経験者も少ないので指導してくれる人もなく、OBの人たちが時々指導に来てくれるのみであった。
 そんな中で、富士宮北高は県立高校に移管した昭和28年度には、県東部のすべての大会で見事優勝し、県大会でも優秀な成績であった。部顧問は、渥美辰雄先生であった。
 当時、北高には、日産の加藤武氏と山梨大学の学生であったOBの鈴木好政氏の友人である幡鎌芳明氏(現神奈川県秦野市在住)が、時々コーチに来てくれた。
特にスピードとショート力にすぐれ、激しい練習のかいあってめきめき実力をつけ前記の成績をおさめ、その年の10月に甲府市で行われた山静大会(昭和30年で終了)では、見事優勝し、山静の頂点に立った。
当時の主力メンバーは、主将の深沢一元氏(協会副会長、㈱マルダイ社長)、石川勝雄氏(本州製紙)、長身の勝又啓之氏(故人)、2年生の和田健氏等々であった。
 北高は、その後2、3年間は県東部大会で優勝または準優勝の成績を残した。
 隣の市の富士高とは決勝戦で数回戦い、優勝を争った。当時のメンバーは、松浦眞氏(現協会理事長)、鈴木正巳氏、深沢成夫氏、稲田圭佑氏(現協会副会長)、木ノ内孝彦氏、深堀明浩氏等々であった。
女子の富士宮東高も好成績をあげたが優勝まではいかなかった。
 当時、市内の中学校ではバスケットボールはまだ普及されておらず、昭和27年5月に草薙バスケットボールコートで、県スポーツ祭中学校の部大会が行われることになり、富士宮実業高校付属中学校チームが出場することになり、運動各部の長身者が急遽集められ、1カ月にわたり高校生の特訓を受け大会に出場した。
 1回戦で静岡の大里中学校と対戦し大敗した。市内中学校の大会初参加であった。
 昭和30年ころ富士宮東高の教師として、バスケットボール部の指導をしていたのが日比野精作現富士宮バスケットボール協会長である。日比野氏は、静岡大学でバスケットボール部が昭和26年創立された当時のメンバーの一員であり、昭和29年度に卒業し、市内二中で教鞭をとり、翌30年からは富士宮東高に移り、数学の教師として富士宮東高を皮切りに吉原高校、富士宮北高、富士高と30年余にわたり教鞭をとった。
 この間、各高校でバスケットボール部の顧問として活躍してきた。昭和48年には、センタープレーヤー海老沼邦夫氏(京都産業大-三井生命)を擁する北高を県大会で優勝させ、東海四県大会に出場させた。また富士高を県大会決勝戦まで進出させるなどその手腕は県協会でも高く評価させた。
 後に全日本大会でも活躍した多くの優秀な生徒も育て、富士・富士宮地域におけるバスケットボールの普及、技術力向上に対する日比野氏の功績は大変に大きなものがある。昭和51年から昭和53年までは県東部協会の会長も務めている。
 当時、バレーボールはすでに一般化し、市内においても企業、事務所でチームも幾つかあり大会も行われていたが、バスケットボールは何分なじみがなく、高校と一部の中学校で行われているくらいで、卒業生たちが母校へ行って指導をし普及に努めていた程度であった。
 このような状況の中で、昭和39年当時、富士宮警察署に勤務していた塩田武氏(富士高出身、故人)が市内のバスケットボール関係者の間を回り、市内にバスケットボール協会設立を呼びかけ、関係者が何回となく会合を重ね発足したのが富士宮バスケットボール協会である。
 昭和39年に創立し、その年に富士宮体育協会に加盟し、昭和40年には体育協会から年間5,000円の助成金をいただいたのが記録に残っている。
 初代会長には、岳陽新聞社社長であった安部光男氏(昭和46年10月29日死去)であった。
安部氏は黒田小、富士中を経て陸軍士官学校卒業、戦時中は第33軍作戦参謀、戦後は市郷友会長、市議会議員を経歴している。
 バスケットボールはそれまで縁がなかったが、岳陽新聞社を経営しておりスポーツには大変に理解を示してくれている方だったので関係者で会長就任をお願いに行ったところ心よく引き受けてくれた。
安部氏は協会創立間もない協会が行う大会にはいつも出席し、指導者を激励し、大会運営費の一部を寄贈していただいた。健康を害し、昭和46年に亡くなるまで会長を務めていただいた。
 協会創立時の理事長は当時、富士宮東高教師であった日比野精作現会長であった。理事は塩田武氏、山田幸夫氏(北高OB)、深沢一元氏、松浦眞氏等であった。
 協会創立最初の大会を昭和40年11月3日に行った。富士地域の高校OBによる親善大会であったが、当時の詳しい資料が残っていないのが残念である。
 昭和42年3月19日と4月2日の両日をかけ、正式の大会として第1回富士地区高校OBバスケットボール大会を行い、この大会には富士宮農高、富士宮北高、吉原工業高、吉原市立商業高、富士高が出場し、リーグ戦形式で2日間かけて大会を行った。
 富士宮市に協会ができたのを契機に富士地区の高校OBによる第1回目の大会であった。大会運営は各校OBが審判を担当し、オフィシャルは各高校の現役部員の協力のもとに大会を行った。
OBのメンバーが久しぶりに大変によい汗を流し、各校OB間の親睦に大いに役立った大会であった。
バスケットボールは、ルールがむずかしく、またハードなスポーツであり、経験者でもゲームは出るが審判は敬遠されがちで大会を開催するのに審判の確保にいつも苦労した。
 この年の8月8日に指導者育成を目的に協会主催による審判講習会を行い、これには市内の中学校教師、各高校の部員、各高校OB等が参加した。
 昭和42年は富士宮市制施行25周年の年であり、体育協会加盟各連盟、協会も市制施行25周年記念大会を行うことになり、当協会もこの年の10月10日(体育の日)と10月15日(日)に北高体育館にて富士地区高校OB大会、11月3日(文化の日)に同じく北高体育館で、市内中学校による市制施行25周年記念富士宮市秋季バスケットボール大会を行った。
 この中学校による大会が現在行われている当協会主催の中学校の最初の大会であり、現在毎年10月ころ開催されている1.2年生による新人戦大会の始まりである。
 この大会には男子の部で一中、二中、三中、四中、富士根南中、上野中が参加、女子の部は一中、二中、三中、四中が参加した。
 当時の各校の顧問は一中が小上馬俊夫先生、二中が佐野典男先生、三中、氏原亨先生、四中、山崎誠先生、富士根南中、佐野春夫先生(元協会副会長)、上野中、塩川辰広先生、女子の部は、一中、松浦克己先生、二中、杉山敏子先生、三中は女子も氏原先生、四中、稲葉三枝子先生等であった。
 先生方にはその後も今日まで当協会が40年にわたり中学校の大会を行ってくるのに大変協力いただいている。
 当時の先生方が一生懸命ルールを勉強し、審判技術を身につけられ、生徒の指導に当たってくれたことが、その後バスケットボールに打ち込む若い先生方を誕生させる源になったものと思われる。
 その中でも当時、富士根南中教師であった佐野春夫先生の功績は大変大きい。佐野氏は昭和36年4月に富士根南中に着任し、バスケットボール部をつくり、以来市内他校にも呼びかけ、また仲間の先生方にもはかりバスケットボールの普及、技術の向上に努めていただいた。
 42年に行ったこの大会にも大いに協力していただき、記念すべき第1回大会が盛会にできたのである。
 佐野春夫氏が当地域のバスケットボールの発展に尽くした功績は非常に大きく、バスケットボールを通して多くの生徒の指導育成に励まれ、バスケットボール経験のない若い教師に熱心に審判技術等の指導を行い、現在、市内中学校では井の頭中を除いてすべての中学校で男女ともバスケットボール部ができるようになったのも、佐野氏の若い時からの努力のたまものである。
 中学校秋季大会はその後も毎年行われ、昭和43年には男子に新たに北山中、柚野中が加わり、女子にも富士根南中が参加し、45年からは西富士中が男女とも参加するようになった。
 昭和45年に第1回東部バスケットボール大会が富士市吉原商業高校体育館で開催され、県東部から9チームが参加した。この大会の第2回大会が昭和46年3月7日(日)に当協会主催のもとに市立体育館で東部7チームが参加し行われた。
 以後、毎年東部各市を持ち回り大会が開かれ、当市も代表チームが参加しているが、成績は1・2回戦どまりであった。
 現在はこの大会は開催されておらず、県協会主管による県民スポーツ祭が開催されており、当市も昭和60年から毎年市民スポーツ祭の優勝チームを県大会に出場させている。男子は宮北クラブ、MCS、女子は桜クラブ、スポップス、ウエスト等が出場している。ここ数年は男子MCS、女子はウエストが東部大会に出場している。MCSは1・2回戦で敗退しているが、女子のウエストは東部大会を勝ち抜き県大会にたびたび出場している。平成14年の第56回県民スポーツ祭では、見事県大会3位の成績をあげている。
 安部会長死去のあと、会長代行として理事長であった日比野精作氏が執ってきたが、昭和50年4月より会長に日比野精作氏、副会長に深沢一元氏と稲田圭佑氏、理事長に松浦眞氏、理事として佐野春夫氏、深沢英雄氏、深沢克仁氏、杉山均氏、中野晴央氏、岩辺邦男氏、鈴木泰蔵氏、鈴木亘氏、野田礼三氏、小上馬俊夫氏、岡本政美氏、渡井勝也氏が就任し、新体制として発足した。
 この年の5月18日(日)に新しく、第1回富士宮市春季バスケットボール大会を開催し、中学校男子の部では8校が参加し、西富士中が優勝、女子の部も8校が参加し上野中が優勝している。
 この大会はその後も毎年行われ、現在の市民スポーツ祭中学校の部大会に引き継がれている。
 当時、市内の子供会では毎年夏に男子はソフトボール、女子はポートボールの大会があり、盛大に行われていた。
 このころ小学校でミニバスケットボールを行う学校が出始め、バスケットボールの普及にも大いにつながるので協会としても積極的に取り組むことになり、関係者からの要望を受け最初の大会を昭和51年11月21日(日)に黒田小学校体育館でミニバスケットボール練習会をして大会を行った。
 大会運営にはすべて協会の役員があたり、当時二中教師であった佐野春夫氏が大会要項等をつくり、市内小学校校長先生のところを回り理解と協力を求めた。
 大宮小校長先生で校長会会長であった鈴木洪二先生、小学校教師であった佐野寿治氏(元黒田小学校長)には大変に協力いただいた。
 翌昭和52年から正式大会となり、市制施行35周年記念第1回富士宮市小学校バスケットボール大会として11月20日日(日)に黒田小体育館で開催し、Aチームの部として富丘小、黒田小、東小、貴船小の4校が参加し、東小が優勝した。
 Bチームによる交歓会の部には黒田小、上井出小、富丘小、貴船小、東小が参加し、上井出小が優勝した。
 この大会開催に当たっては、富士宮地区小学校体育研究会の後援のもとに小学校ミニバス普及会のみなさんの協力をいただいた。
 第1回大会の審判長であった佐野寿治氏、当時富丘小教師であった大森衛氏(現教育長)等々、小学校にミニバス普及を目指す熱心な大勢の先生方に大変協力をいただいた。
 以後、この大会は毎年行われ、昭和55年からは第1回市民スポーツ祭バスケットボール大会小学校の部大会として引き継がれ、現在も行われている。
 ミニバスケットボールは昭和55年8月よりスポーツ少年団活動に移行され、スポーツ少年団育成会指導のもとに歴代会長の尽力をいただき健全に発展している。
 平成17年度のスポーツ祭出場チームは男子が8チーム、女子が11チームを数えるようになり、県東部大会でも常に優秀な成績をおさめている。
 ボランティアで各スポーツ少年団チームを指導している監督、コーチの熱意のたまものである。
現会長は吉野誠氏(協会理事、北高OB)である。
 昭和55年より市民スポーツ祭として全市を挙げてスポーツの振興、市民の健康増進に取り組むことになり、協会でも新たに8月17日(日)に第1回市民スポーツ祭一般・高校の部大会を市立体育館で開催し、市内高校、一般クラブチーム11チームが参加した。
 以後、この大会は引き続き行われてきており、1992年のバルセロナオリンピックのアメリカドリームチームの すばらしい活躍のあとバスケットボール愛好者が急激にふえ、平成4年大会は29チームの参加(男子22、女子7チーム)、平成5年大会は38チーム(男子27、女子11チーム)、平成6年入会は36チーム(男子28、女子8チーム)参加となり、市民体育館では毎夜どこかのクラブチームが必ず練習している状況である。
 アメリカドリームチームの活躍により、バスケットボールのもつスピード、高度のテクニック等がうけ、最近の若者間で急速に普及してきている。ここ数年は男子は20チーム以上が参加しておりバスケットボール熱は依然高く、平成17年度大会は、男子26チーム、女子6チームの参加であった。
 平成3年1月20日(日)には日本バスケットボール協会主催による第24回バスケットボール日本リーグ富士宮大会が新装なった富士宮市民体育館で開催され、大会の運営等に当協会も全面的に協力することになり大会裏方として活躍した。
 男子二部リーグの大和証券対日立本社、女子一部リーグのNEC対日立甲府、男子一部リーグのNKK対東芝の試合が行われ前座試合として小学生による富士選抜チーム対富士宮選抜チームの試合も行われ2,000人近いファンが詰めかけバスケットボールの魅力を満喫した。
 平成9年2月2日(日)には、JBLバスケットボール日本リーグ機構による第30回ジャパンバスケットボールリーグ富士宮大会を市民体育館で開催した。女子二部の東京三菱対JAL、男子二部の日立本社対デンソー、女子一部のシャンソン対日立戸塚の試合が行われた。2,000人余のファンが地元シャンソンの試合を目のあたりに見て大変盛り上がった大会となった。
 平成6年7月10日(日)には東海・北陸ブロック車椅子バスケットボール連盟主催による平成6年度定期大会前期静岡大会が当市市民体育館で開催され、大会運営、審判の協力要請を受け、協力した。
 参加チームは遠くは富山県、福井県、石川県等々から13チームが参加し、身体のハンディを乗り越えた闘志あふれるすばらしいプレーに強く感動した。
 審判を行うのも初めての経験であるので、事前にビデオテープにより勉強し、大会運営に臨んだ。この大会には当協会のほか、市内中学校バスケットボール部顧問教師及び富士根南中女子バスケットボール部員、上野中男女バスケットボール部員のみなさんの協力をいただいた。
 若者のバスケットボール熱が高いのをうけ平成13年から一般男女の会長杯争奪大会を開催することになり、 第1回大会を2月25日、3月4日の両日で開催した。男子22チーム、女子8チームの参加があり、男子は市民スポーツ祭の成績を参考に1部、2部、3部に分けそれぞれ優勝杯を授与している。この大会は毎年3月に開催され男子1部と女子はリーグ戦で行い試合数を多くしゲームを楽しんでいる。
 平成16年8月7日(土)、8日(日)には全国高等専門学校体育大会バスケットボール大会が富士宮市民体育館で開催され、全国各ブロックを勝ち抜いた男子12チーム、女子8チームが当市に集まり2日間にわたり熱戦を展開した。当協会も大会裏方として協力した。男女とも鈴鹿工業高専が優勝した。本県からは沼津高専が出場したが予選リーグで敗退した。
 昭和39年に細々発足した当協会も創立40周年を経過しこの間多くの皆さんの協力のもとに協会の運営、諸大会の開催を行いバスケットボールの普及、技術力の向上に努めてきた。そのなかにあって当協会の要として活躍してきた佐野春夫副会長が平成13年2月に亡くなり、又16年12月には佐野春夫氏の教え子である杉山均理事が亡くなり、協会としても大変大きな痛手となった。永きにわたり協会を支えてこられたご両人に心から感謝を申し上げたい。
 昭和39年発足と同時に富士宮市体育協会に加盟し体協加盟の一団体として他団体とともに健全なスポーツの発展、振興に寄与しており傘下のミニバス育成会とともに子ども達の健全育成にも努めてきた。平成6年には、日比野精作会長が永年にわたり市民体育の向上、スポーツ振興に尽力された功績が認められ、富士宮市体育協会功労者表彰を授与され、又岳南朝日新聞社体育部門の功労者表彰をうけ関係者に大きな励みをあたえた。今後もバスケットボール協会の発展とスポーツの振興発展、青少年の健全育成に向け役員一同意欲的に活動をすすめていきたい。


平成17年度 会長杯
激しいボールの奪い合いを演じる女子の部

平成17年度富士宮地区中学校
バスケットボール新人戦大会開会式
平成17年10月22日 市民体育館

第39回全国高等専門学校体育大会
バスケットボール競技大会
平成16年8月7日(土)市民体育館

平成17年度富士宮バスケットボール協会役員名簿
 役員名
氏  名
会 長
 日比野精作
副会長
 深澤一元
副会長
 稲田圭佑
理事長
 松浦 眞
理 事
 深澤英雄
理 事
 久保田正幸
理 事
 影山晴央
理 事
 三浦 敏
理 事
 柏木美智子
理 事
 吉野 誠
理 事
 深澤克仁
理 事
 渡邉貴之
理 事
 遠藤 泰
理 事
 大石広和
理 事
 江藤夕華子