加盟団体

富士宮地区卓球連盟スケジュールはこちら

名 称 富士宮地区卓球連盟
代表者 会長 石川政道
所在地 〒418-0075 富士宮市田中町616番地の10
連絡先 TEL/FAX 0544-26-3575(事務局)
設立年月日 昭和21年4月1日
事業内容 卓球競技の普及及び技術向上
事業内容
  • ● 教育委員会主催の卓球教室の指導(第1期5月~7月、第2期9月~11月、第3期1月~3月
  • ● 東部都市対抗に参加する事
  • ●スポーツ少年団の育成に関する事
  • ● 各種卓球大会の開催
  •    ・富士地区中学校対抗卓球大会
  •    ・富士宮市民スポーツ祭個人の部
  •    ・富士宮市民スポーツ祭区対抗の部
  •    ・会長杯争奪卓球大会
  •    ・富士地区中学生学年別卓球選手権大会
  •    ・富士宮卓球祭
  •    ・富士宮地区中学校新人卓球大会
  •    ・富士宮市制施行記念卓球大会
  •    ・中学選抜東部予選会
  •    ・富士地区中学生新人卓球選手権大会
  •    ・富士宮卓球選手権大会

役  職 氏  名 所 属 部
会長 石川 政道 富士宮卓球クラブ
副会長 塩川 洋子 富士宮レディース
副会長 西島 謙悟 富士宮卓球クラブ
副会長 稲葉 晃 富士宮信用金庫
副会長 佐野 文保 富士宮卓球クラブ
理事長 神戸 英治 富士宮市役所
副理事長 石川 猶章 テルモ
事務局長 小川 泰史 富士宮市役所
事務局 望月 伸哉 富士宮市役所
会計監事 佐藤 修一 オレンジ
会計監事 内海 誠二 富士宮卓球クラブ

● 富士宮地区卓球連盟の黎明期

富士宮地区卓球連盟の生い立ちは古く、昭和21年10月に静岡県卓球連盟が日本卓球協会に正式加盟した当時からの設立であり、戦前から日本を代表する選手を輩出してきたところである。昭和初期は、さまざまな近代スポーツが当地にも普及し始め、スポーツ界の基盤がつくられていく時代であった。

 

 卓球競技は、当時大宮町唯一の女学校であった大宮高等女学校(現富士宮東高校)で盛んとなり、長田邦子(現渡辺)、渡辺睦子(現北村)両選手は、全国大会で優勝し、伝統を誇る卓球富士宮の基礎となり、後に国際的に活躍した渡辺紀生子(現加藤)選手(世界選手権大会団体2度優勝主力メンバー、女子シングルス準優勝)を初め多くのすぐれた選手を輩出するようになった。
この活躍の礎は、県東部地域が県下に先駆け卓球レベルが高かったこと及びすぐれた指導者に負うところが大きい。
その指導者を挙げてみると、内久根聖己(故人)「当時沼津銀行、後に東京製紙監査役」の毎週の日曜日返上による熱心な指導や卓球部顧問の水口先生の厳しい指導により長田、渡辺が前述の成績を収めることができた。 また、大宮高女時代から富士宮東高校へと、戦後の静岡県卓球界のレベル向上に励まれた水口先生の功績は、より大きく評価され、さらに御宿先生に受け継がれ、氏の指導によって渡辺紀生子が育てられ、昭和26年には、全国高校卓球選手権大会で初の団体優勝を達成しており、昭和31年には、東海高校総合体育大会でも優勝している。
戦前からの記録として特出した記録を上げてみる。

● 第一期黄金時代

昭和12年から15年連続全国学校対抗に大宮高等女学校(現富士宮東高校)が出場し、長田邦子を擁した14年、15年と2年連続準優勝した。
昭和13年7月30日~31日
第11回全国女子卓球大会が東京三越ホールで卓球連盟主催で開催され、個人戦で長田邦子(大宮高女)が優勝した。
昭和13年11月1日~2日
第9回明治神宮国民大会の卓球競技が東京麻布小学校で開催され、日本式(軟式)一般女子単の部において渡辺睦子(大宮高女)が優勝した。
昭和14年7月30日~31日
第12回全国女子卓球大会が東京三越ホールで卓球連盟主催で開催され、個人戦で渡辺睦子(大宮高女)が優勝した。
昭和15年6月13日
汎太平洋卓球競技大会が東京神田共立講堂で開催され、長田邦子(実践女子大)が日本代表選手として出場し、団体戦において日米対抗戦は3対2、日豪対抗戦は3対0で快勝し、国際大会においても大宮高女卓球の実力を示した。
昭和15年7月30日~31日
第13回全国女子卓球大会が東京三越ホールで卓球連盟主催で開催され、個人戦で渡辺睦子(大宮高女)が優勝した。
昭和15年11月1日~2日
第11回明治神宮国民大会の卓球競技の部が東京麻布小学校において開催され、日本式(軟式)一般女子単の部で渡辺睦子(大宮高女)が優勝した。
前述のごとく昭和13年から15年の3年間は、大宮高女出身の長田邦子、渡辺睦子の両選手が日本女子卓球界を制覇したと言っても過言ではない。
しかし、長田邦子はこの時期アメリカ行きを計画し、世界卓球界で活躍を期待していたが第2次世界大戦の勃発でやむなく中止となり、一時期戦時下のため卓球競技が中断された。
戦後の活躍としては、長田邦子、渡辺睦子に続いて後輩の渡辺妃生子に引き継がれ、日本のみならず世界卓球選手権大会団体戦優勝の立役者となった。
昭和21年、22年連続で全日本軟式選手権女子シングルスで渡辺睦子が優勝、22年には渡辺は、中西と組み、女子ダブルスでも優勝、昭和23年横浜市で開催された全日本選手権混合ダブルスの部で渡辺睦子が守屋泰二と組み優勝した。

● 第二期黄金時代


昭和26年7月28日~29日
第20回全国高校学校対抗が全国高体連卓球部会主催として大学から分離し、単独の全国高校学校対抗として第1回大会が名古屋市開催された記念大会において富士宮高校(現富士宮東高校)が女子団体戦において初優勝、女子シングルスで渡辺妃生子が準優勝、女子ダブルスで渡辺・川口組が第3位、さらに呉市で開催された第6回国体高校女子団体で準優勝に輝いた。
また、昭和26年11月3日~5日京都市で開催された全日本選手権卓球大会女子ジュニアの部で富士宮高校の川口沙智子が優勝した。
昭和27年7月27日~28日
富士宮高校は、昨年度の優勝メンバー渡辺・塩川・田中を擁し、優勝候補に挙げられていたが準決勝で広島女学院に3対1で惜敗し、第3位であった。
また、渡辺妃生子は高校3年から一般の部に出場し、後に専修大学に入学し、28、30、31年と全日本チャンピオンに輝き、4年間世界選手権に出場し、大活躍した。

 昭和30年第10回国民体育大会(横須賀市で開催)高校女子団体の部において内田路子(富士宮東高校)、杉山浪子、手島和子(誠心高校)の3選手で優勝した。
昭和29年4月第21回世界卓球選手権大会がロンドンで開催され、静岡県出身の男子川井一男、女子で渡辺妃生子が参加し、男女とも団体戦で初優勝した。
翌年4月、ユトレヒトで第22回世界大会が開催され、渡辺妃生子が活躍し、女子団体戦は決勝戦でルーマニアに破れ準優勝であった。
昭和30年の全日本卓球選手権女子シングルス優勝、翌年4月東京都体育館で第23回世界大会が開催され、渡辺妃生子が出場し、女子シングルスの部で大川とみと大接戦を演じ惜しくも準優勝、女子団体は第3位であった。
昭和31年全日本卓球選手権大会において渡辺妃生子が設楽義子とダブルスを組み、優勝した。昭和32年ストックホルムで開催された世界選手権大会に渡辺妃生子が出場し、女子団体の主力メンバーとして活躍し、優勝を飾った。


富士宮東高校は、昭和25年から35年まで連続11年間女子団体で全国大会に出場して静岡県女子卓球界に長く君臨した。
昭和33年、34年には国民体育大会の団体の部で第3位。個人戦では昭和33年に佐野仲枝が全国高校選手権大会で県代表、34年には国体県代表に栗田和代(現横山)が、昭和36年に栗田和代が全日本選手権の混合複で準優勝した。
昭和37年には国体県代表に桂憲子が県代表となった。男子等の活躍が目立った時代から現在までその後富士宮地区の卓球界の低迷時代が続き、昭和42年に富士宮北高校の佐野文保が高校男子シングルスで県代表として久々に出場し、富士宮北高校の力が県の上位クラスにランクされるようになった。


昭和43年には、富士宮北高校の村松力が足の身体障害を克服し、見事に全国大会出場を果たし、明るい話題を提供した。
昭和45年11月21日~26日
三重県営体育館で開催された全日本選手権男子ジュニアの部に出場した富士宮北高校山田真選手が、ノーシードながら優勝候補の前原(明治)、田村(熊谷商)を破り決勝に進出し、フルセットジュースの末破れたが準優勝に輝き、県卓球界の久々の快挙となった。

  昭和46年8月4日~9日
徳島市で開催された第40回全国高校選手権大会に富士宮北高校が男子団体(県大会準優勝、チームメンバー山田真、稲葉晃、佐野景雪、古川和正、大竹篤、前島好、小野田牧人、桜井)に初出場。男子シングルスでは県予選で稲葉晃が準優勝、佐野景雪が第3位。男子ダブルスでは山田真・佐野景雪組が優勝し、全国大会へ出場、全国大会では山田真がランキング第5位。男子ダブルスでは佐野景雪とペアーを組み、ランキング第5位に輝き、北高校の全盛期を築いた。
また、同年8月14日から9月2日まで中国北京・上海ほかで開催された第1回ジュニア中国遠征に山田真が選ばれ、日中友好に活躍した。その後、山田は法政大学に進学し、法政大学の中心選手として活躍し、大学3年のときに全日本学生選手権男子ダブルス第3位に輝いた。
富士宮北高校はその後も全国大会に選手を送り、昭和48年に蛭川文夫が県大会シングルスで第3位、篠原芳彦が第5位。49年に篠原芳彦が県大会シングルスで優勝、ダブルスで内海誠二・篠原芳彦組が優勝し2冠を制覇。59年に県大会ダブルスで小川泰史・井出文憲組が第3位で県代表に、男子シングルス第6位で小川泰史が全国大会に出場した。
一方、富士宮出身の女子では、昭和44年に富士見高校から海野(現吉野)節子がシングルス第3位で県代表。昭和46年には第5位で大庭(現佐山)道子、昭和46年に富士宮東高校の後藤晴江・中野幸子組がダブルスで第3位。47年に七沢京子がシングルスで準優勝し、全国大会出場を果たした。
社会人では、昭和44年に全日本軟式選手権大会混合ダブルスの部に吉野勝士(テルモ)・海野(現吉野)節子(東京製紙)組が優勝、一般男子シングルスでは吉野勝士(テルモ)が第3位、この年を皮切りに富士宮勢が全軟県予選に常勝し、男子シングルスの部では稲葉晃(富士宮信用金庫)が昭和55年、56年、57年の3年連続チャンピオンに輝いた。また、稲葉は昭和55年の全軟秋田大会で遠藤朋子(リコー)との混合ダブルスでランキング第8位に輝いた。
女子シングルスの部では海野(現吉野)節子(東京製紙)が46年から49年まで4年連続チャンピオンに輝いた。また、男子ダブルスの部では昭和45年、47年に吉野勝士(テルモ)・長谷川健二(富士フイルム)組が優勝。51年に清孝行(富士宮卓球クラブ)・稲葉晃(富士宮信用金庫)組が優勝。58年に稲葉晃・篠原芳彦組(富士宮信用金庫)が優勝。女子ダブルスの部では石川(現村下)典子・海野節子(東京製紙)組が昭和46年から48年まで3年連続チャンピオンに輝いた。
全日本社会人選手権県予選では、昭和49年に男子シングルスの部で吉野勝士(テルモ)が第3位。50年に清孝行(富士宮卓球クラブ)が第3位となり、日本楽器(現ヤマハ)等の強豪を破り、全国大会の切符を手にした。また、年代別の部門では吉野勝士(テルモ)が58年に30代で優勝。平成元年、2年、4年、5年に40代で準優勝し、全国大会に出場した。
また、吉野勝士(テルモ)は、平成3年7月21日に開催された第43回中部日本卓球選手権大会男子40歳の部で第3位に輝いた。
国民体育大会の足跡
昭和52年度第32回大会成年男子の部で稲葉晃(富士宮信用金庫)が第6位。
平成12年度全国中学選抜卓球大会の全国大会が平成13年3月28日(水)~29日(木)栃木県宇都宮市で開催され大富士中学校が全国ベストエイトに輝いた。
平成14年8月15日(木)~16日(金)に大阪府立体育館で開催された第11回東アジアグランプリホープス卓球選手権大会に日本代表選手として大富士小学校篠原哲郎選手が参加し第2回戦まで勝ち上がり韓国代表選手と対戦し善戦した。篠原選手は、その後愛知県名電中学校に進学し、平成16年度全日本カッデットの部ダブルスに出場し、全国大会で優勝した。

● 卓球連盟の発展と業績

昭和21年に富士宮市、富士市、芝川町地区を対象として卓球連盟を創立すべく、望月一訓氏、望月好郎氏等が戦後の混乱した世相の中で明るい社会づくりは卓球競技などのスポーツの汗の笑顔の中から生ずる相互信頼と健康が大事だと考え、統一された組織の必要性を感じ、いち早く連盟設立のため一致協力して奔走し、4月1日付けをもって発足した。 この同時期に静岡県卓球連盟も昭和21年10月正式に発足し、当時の加盟地区は静岡、清水、沼津、三島、熱海、伊東、島田、富士宮の8市であった。
昭和30年8月富士宮市で三競技大会(旧マッカーサー杯)を招致。
昭和31年5月24日世界卓球選手権東京大会終了後、世界卓球連盟会長アイボア・モンタギュー氏と折衝し、富士宮滯同試合を誘致した。
当時の英国、チェコの有名選手と日本男、女の優勝選手を招待し、世界の卓球技術を富士宮に紹介した。
昭和44年に市民待望の市立体育館が完成し、翌45年から地域卓球界のレベルアップのため中学生を対象として卓球教室を開講した。以来、毎週水・土曜日の午後6時から午後7時まで中学生の指導を行い、午後9時まで指導員の強化練習を行い、当地区のレベルアップを図った。
昭和58年度からは、文部省の指導によりスポーツ少年団の育成に切り替かえ今日まで継続して行っている。
また、昭和58年度からは一般市民を対象とした卓球教室を教育委員会から依頼され、年間を3期に分け、1期当たり10回(約3カ月)の教室を開講し、卓球競技の普及を図り現在も継続して行っている。
平成5年度からは中学生・高校生のレベルアップのため月1回強化練習会を開講している。

● 役員関係

○初代役員は、  (昭和21年~33年)
会 長  佐野弥三郎 
副会長  栗田春吉、望月一訓
理事長  望月好郎
事務局(幹事)
石川 弘(渉外担当)
赤池正光(経理担当)
長谷川建二(大会運営等)
西島謙悟(大会運営等)
○昭和34年~46年
会 長  佐野弥市
副会長  栗田春吉、望月一訓
理事長  望月好郎
副理事長 高柳住典
事務局長 石川 弘
顧 問  佐野弥三郎
参 与  続一郎、内久根聖己
○昭和47年~52年
会 長  望月好郎
副会長  佐野 智、渥美悦朗
理事長  高野英夫
副理事長 高山 洋
事務局長 石川正幸
顧 問  佐野弥市
参 与  栗田春吉、望月一訓
○昭和53年~55年
会 長  望月好郎
副会長  佐野 智、渥美悦朗、高野英夫
理事長  吉野勝士
副理事長 西島謙悟(事務局兼務)
会計監事 石川正幸、望月 勝
顧 問  佐野弥市
参 与  栗田春吉、望月一訓
○昭和56年
会 長  望月好郎
副会長  佐野 智、渥美悦朗、高野英夫
理事長  小池 力
副理事長 稲葉 晃
事務局長 西島謙悟
会計監事 石川正幸、望月 勝
顧 問  佐野弥市
参 与  栗田春吉、望月一訓
○昭和57年~58年
会 長  望月一訓
副会長  佐野 智、高野英夫、山本修二
理事長  西島謙悟
副理事長 稲葉 晃
事務局長 神戸英治
会計監事 石川正幸、望月 勝
顧 問  佐野弥市
参 与  栗田春吉、渥美悦朗
○昭和59年~60年
会 長  高野英夫
副会長  石川正幸、小池 力
理事長  西島謙悟
副理事長 稲葉 晃
事務局長 神戸英治
会計監事 佐藤修一、望月治
顧 問  望月一訓
参 与  栗田春吉、渥美悦朗、佐野智、山本修二
○昭和61年~平成元年
会 長  小池 力
副会長  石川正幸、高橋 理
理事長  西島謙悟
副理事長 稲葉 晃
事務局長 神戸英治
会計監事 佐藤修一、望月 治
顧 問  望月一訓
参 与  栗田春吉、渥美悦朗、佐野 智、山本修二
○平成2年~平成9年
会 長  小池 力
副会長  高橋 理、吉野勝士、石川政道
理事長  西島謙悟
副理事長 稲葉 晃
強化部長 藤島 仁
事務局長 神戸英治
会計監事 佐藤修一、望月 治
顧 問  望月一訓
参 与  渥美悦朗、佐野 智、山本修二、高野英夫、石川正幸
○平成10年~平成17年
会 長  石川政道
副会長  塩川洋子、西島謙悟、稲葉 晃
理事長  神戸英治
副理事長 内海誠二
事務局長 小川泰史
会計監事 佐藤修一、佐野文保
顧 問  小池 力
参 与  高橋 理、吉野勝士