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 戦後の登山ブームの中で、富士宮・富士・吉原の登山愛好者から、「富士宮に山岳会をつくろう」という強い気持ちを持つ人々が集まり出した。そこで、昭和32年(1957年)十字屋スポーツ店の2階で、望月喜儀、山田磐根、原田義男、岡本泰三、吉沢二郎等で山岳会発足の準備の会合を開き、6月5日に「富士宮山岳会」が発足した。それにともない、すぐに静岡県山岳連盟に加盟し、第1回、「山岳映画の夕べ」を開催した、まず地元の山からと、4ヶ月かけて、天子ヶ岳から毛無山、までの縦走路を開拓した。翌年には、冬の富士山で冬山合宿を行い、この昭和33年6月に今も恒例となっている市民バスハイキングを入笠山で行った。

登山ブームの世相の中で、冬の表富士で起こる遭難がおこると、地元山岳会として、救援や捜索活動を行う立場になった。
昭和36年の冬山合宿から冬期登攀の合宿を行い、日本を代表する岩場での冬季登攀の初登、第二登へのチャレンジが始まった。このころの中心メンバーは、渡井豊、佐野英明、篠原勝、遠藤晃立、望月忠らであった。その登攀史に名を残す足跡は、富士山では、遠藤による冬期剣ヶ峰大沢の単独初登や、大沢の上井出から源頭部までの、増田信義らの完全遡行などがある。
当時の国内で残された大きな課題は、北岳バットレス中央稜の大ハングルートや冬期の赤石沢奥壁左ルンゼなどであった。これに対して、富士宮山岳会は、昭和38年夏合宿で、北岳バットレス中央稜大ハングルートやマイナーピークの2ルートの初登攀を成し遂げた。また、赤石沢奥壁左ルート冬期初登は、40年12月に達成した。これをきっかけに、昭和40年代前半、穂高での屏風岩、前穂東壁、滝谷の連続登攀の実践や初登攀したバットレス中央稜大ハングの冬期初登などをやる一方、穂高岳、剣岳、北岳、北海道利尻岳など全国各地で合宿を行った。

これらの先駆的実践のエネルギーは、海外の山々へと向かい、昭和42年ヨーロッパアルプスに望月忠、加藤三郎らが遠征した。ヨーロッパ・アルプスの六大北壁の一つ「ピッツ・バディレ」の日本人初の登攀に成功した。その流れは、ネパール・ヒマラヤへと向かい、46年のプモリ遠征となった。当時、経済的に恵まれた大学関係者の海外遠征が中心であった海外登山に対し、休日だけ登山する社会人でも、海外遠征ができることの証明をめざす「短期間、低コスト」の先進的な遠征計画であった。


ヨーロッパ遠征メンバー


プモリ遠征

 このように、日本の精鋭登攀を実践する社会人山岳会となったが、それにともなう遭難事故も2件起こし、3名の仲間を失う悲劇にも遭ってしまった。

昭和40年代、国内でも先進的登攀の実績は継承されていた。その例として、以下の初登攀の記録を残している。

43年:剣岳池ノ谷コンマCフェース・ダイヤモンドスラブ
44年:甲斐駒ヶ岳赤石沢奥壁ダイレクトルート
46年:サデの大岩正面ダイレクトルート
47年:甲斐駒ヶ岳赤石沢奥壁中央壁左ルート(冬期)
48年:剣岳チンネ下部魚津高ルート(冬期)

 昭和50年代に入ると、職場環境が変化したため、東京に転勤する者が多くなり、東京支部が成立した。一方、集団目標より個人目標で、登山を楽しむ時代へと変化していった。海外登山も、個人で行ける時代となった。また、レジャーの多様化で会員も減少した。そんな中、女性会員の活躍が目立ち、昭和58年、女性だけのインド・ヒマラヤCB13峰に工藤紀代、飯高良子、影山こずえの海外遠征隊を派遣し、登頂に成功した。また、解禁となった目ネパールとヒマラヤの名峰アマダブラム峰に昭和56年に会員の渡井豊以下5名が遠征した。


インドヒマラヤ遠征(女性隊)


個人的には、パミールのコミュニズム峰とコルジェネフスカヤ峰の2峰の7000m峰を登頂した小林久二彦や、同じインドのクン峰への工藤誠志の7000m峰の挑戦が行われた。
この昭和50年代、地元の山では、工藤誠志、小林久二彦を中心に冬期の富士山剣ヶ峰大沢源頭部の各ルートへ体系的登攀がなされた、3ルートの初登攀が記録された。
昭和62年、創立30周年記念として、会長木ノ内高嘉を中心に、今では中高年のポピュラーな登山形式となった「日本百名山」の一年間での登頂を果たす記念行事を実施した。また、別の30周年の記念企画として、各種登山道から富士山山頂をめざしての集中登山を実施した。創立当時の会員から、この年入会した新人まで28名が浅間神社奥の宮の前に集まり、最長老の竹内夫妻を拍手で迎え創立30周年を祝った。
平成年代に入り、ますますレジャーの多様化が進み、山から若者が減ってしまう現象が見られるようになった。多くの山岳会で、会員が減少し活動が停滞して行った。一方で、中高年を中心に登山ブームが起こり、ブランド志向といわれる「日本百名山」の登山ブームとなった。そんな状況下の登山界の影響を富士宮山岳会も受け、平成年代の前半、気づいてみると、全国の山々への登頂や縦走登山、登攀や冬期登山を実践する社会人山岳会としては、低迷した時期を過ごすようになっていた。その反省から、地域山岳会として、どのように地域と関わるべきか、また、登山愛好家集団として、どのような登山活動を実践し、仲間の輪を広げていくか、を真剣に考える時期を経た。そして、地域山岳会として、地道な地域に関わる活動を大切にしながら、仲間を増やす努力をする方向性を確認した。それは、本来のアルピニズムを基本の活動としながらも、多様化した「登山」を、登山の愛好家の集団として各種「登山」の活動を楽しむ山岳会活動を心掛けることを意味する。また、その活動を通じて、世代を超えた仲間の輪を広げる姿勢を持つことにした。そのためか、この数年、中高年から若い世代まで、毎年コンスタントに仲間の輪が広がり、毎週末には、2から3グループが、各地の山々に出向く活発な山岳会となっている。ハイキング、日本アルプスの縦走、沢登り、岩壁登攀、冬の稜線歩き、雪の岩稜登攀、ボルダリング、山スキー、ケービリング等々、本当に各種「登山」や自然を楽しむ幅広い活動を楽しめる山岳会となっている。
「地域山岳会としての地域との関わり」、それを大切にする姿勢を確立しての「登山」愛好会の集団。その原点は、創立以来実施している「市民バスハイキング」である。今年も「木曽駒ヶ岳」ハイクを実施したが、定員オーバーとなり、一部希望者をお断りしたほどの盛況となった。近年、この市民バスハイキングに加えて、「市民登山教室」も開催するようになった。内容は、「新緑山行を楽しむ登山」「初級雪山教室」「初級クライミング教室」などである。これは、登山を楽しむ機会を広く市民に提供し、安全登山の普及とその実践を体験してもらう活動であり、山を楽しむ人の輪を広げようとの考えからの活動である。他方、富士宮市と協力して、夏山シーズン中の土曜日と日曜日に、会員が富士山に登って登山者の安全登山の指導をしたり、天子山塊の主脈を登山者が安心して歩けるように、登山道の草刈も行っている。十数年前、「花の百名山」の著者、田中澄江さんが、鳴沢村に講演のためいらした。その機会に登頂しようと登山した天子山塊の「雨ヶ岳」の登山道が、ササと雑草におおわれ、登頂できず、その残念だった思いを山岳専門雑誌に寄稿していた。それを知った我々は、自主的に雨ヶ岳の登山道の整備を始めた。そこから毛無山までの縦走路の草刈りへとコース整備の区域を広げた。その後、富士宮市と協力して、長者ヶ岳から毛無山、雨ヶ岳、端足峠までのコースの整備を実施するようになった。近年、我々以外の団体も天子山塊の登山道を整備する協力してくれるグループも現れた。それらの成果で、天子山塊の主稜線の登山道を使用して、平成15年東海高校総体登山大会で、平成16年静岡県スポーツ祭登山大会で、天子山塊の主脈コース上で開催されるほど、この間の登山道が一般の登山者が歩けるコースとなった。それに我々山岳会会員が、関わっていることに喜びを感じている。
日本一の富士山の麓の山岳会として、地域の「山」の情報発信にも心がけるようにしている。身近ところでは、富士川の蓬莱橋付近の岩ガケを、近年流行しているクライミング場として、体系的に登山界に紹介した漆畑の実践。今では、休日になると、各地からクライマーが訪れるエーリアになった(地元の方には迷惑になることもあるかも知れませんが。)また、富士山の南西面のハイキングコースや沢を紹介する冊子を自己出版し、広く市民に配布したりした。
山岳にも競技がある。その一つ国体では、毎年、県代表の役員や選手を派遣して静岡県の入賞に貢献している。平成15年の静岡国体で、山岳競技は、天皇杯、皇后杯を獲得した。その際に、山岳会員4人が、役員、監督として大会運営に協力した。
平成18年に、富士宮山岳会は創立50周年を迎える。その記念行事として、本年から2年がかりで、「日本アルプス(北・中央・南)の縦走と日本の3000m峰の登頂」をめざす記念行事を、OBと現役会員が協力して実施している。この五十年の歴史の重みを確認しながら、次の五十年に向かって歩み続けている富士宮山岳会である。


平成17年度市民バスパイク 木曾駒ケ岳

歴代会長

望月 清
富士 勝
渡井 豊
木ノ内高嘉
平成17年富士宮山岳会役員

会 長
工藤誠志
副会長
小林久二彦
チーフリーダー
田中将裕
事務局
富士市大渕3913の87 工藤方