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● 昭和の初め 草分けのころ

  昭和の初めと言えばわが町富士宮市はまだまだ田舎町、その田舎町で野球のゲームが行われるようになったのは昭和に入って間もなくのころである。

  と言ってもまだそのころは寄せ集めの仲間が学校の校庭に集まり、メンバーが足りなければたまたま居合わせた人を充足したりしてなごやかに行っていた。
  昭和5・6年ころになるとその野球仲間が集まってチームをつくり、対外試合が行われるようになったが、試合開始は礼で始まるのはよしとして、試合終了は勝った負けたでけんかになっての物別れがたびたびあったそうである。今の平和な時代のスポーツでは考えられないほど、世の中が不安定な時代であったことをしのばせる。
  そのころのチームとしては大宮クラブ、近江絹糸、岳南堂病院、山下靴店、郵便局、教員団などがチームをつくってゲームを楽しんでいた。その中でも先駆者となる大宮クラブは春秋には富士、吉原、鷹岡などのチームと定期的に試合を行い、さらに遠く山梨県身延まで遠征に出かけて活躍したとのこと、また軟球では物足らず硬球を握って農学校(現富岳館高)ともよく練習試合をやっていた。
  グランドは主として大宮小学校、貴船小学校、東小学校などが使われたが、校庭が狭いのでボールが周囲の家を直撃してガラス窓を割ったり、屋根や塀を壊したり、田畑の農作物に被害を与えたりしてグランド周囲の住家や工場、農家などには随分迷惑をかけていたようである。しかし昭和10年代に入ると11年に起こった2・26事件、続いて12年の支那事変と軍事色が強まり、野球を楽しむような情勢でなく若者が次々に徴兵制度で狩り出され、戦争の相手国アメリカから伝えられた野球は自然に消えていった。

● 終戦直後 連盟創立のころ

  昭和20年8月15日は日本の歴史を大きく変えた記念すべき日であるが、ようやく平和を取り戻した若者たちのエネルギーは人気スポーツの野球へ、ちょっとした原っぱがあれば子供たちは自分たちで作ったバットやボールを持ち寄り、手軽な三角ベースに興じていた。終戦翌年の21年になるとプロ野球、ノンプロ野球(今の社会人野球)、学生野球(東京6大学が中心だった)、中等学校野球(今の高校野球)などがいち早く復活し、それらのニュースは青少年の間に広まっていった。
  当時は戦後の物資不足の時代で、用具や用品は食料と同じように配給制度、試合といってもチーム全員のユニホームが揃うなどはまれで、スパイクがわりの地下足袋、グラブなどは攻守交代でお互いに貸し借りをして間に合わせ、特にボールは最も貴重品であった。
  そんな戦後の混乱した中で、私たち富士宮野球連盟は早くも結成され昭和21年9月20日付の文書で静岡県野球連盟理事長、郷豊氏(後に県連会長を長く務めた)あてに加入申請の申し込みをしている。その記念すべき申込書には会長中山元太郎、事務担当者広瀬章の両氏の名が記されており、その後設立された市体協の中でも野球はその中核となって、富士宮のスポーツ振興に大きく貢献してきた。

  創立間もないころのある年度の登録チームを紹介すると懐かしいチーム名、また代表者としてチームをまとめた野球愛好家の氏名が見られる。その他これと前後するころのチームでは富士特殊、魚市場、くろがね、森永、紫煙(専売公社)、青柳クラブ、近江絹糸などが強豪チームとして活躍した。魚市場には富士宮野球連盟とともに歩んだ山下虎男氏が中心選手として、青柳クラブには河原崎澄雄氏(前市体協会長)が捕手として元気にプレーをしていた。創立間もないこの当時は年間登録チームもせいぜい10数チームくらいだった。またこのころの都市対抗野球にも山下虎男氏を中心とした「全富士宮」が22年から24年まで山静地区予選に出場している。
  隣の富士市ではそのころ大昭和製紙(当時は吉原市)がチームを作って山静の暴れん坊と称し、都市対抗野球の常連となっていき、三連覇の全鐘紡を倒して初優勝したのが昭和28年である。
  連盟が結成され、チームが集まれば次は各種大会の開催となるが、当時は有力者が優勝旗を寄贈し、経費を負担するスポンサー大会(鷹岡の宮幡靖代議士の名などもある)への参加が多く、その中からいち早く今でも続いている区対抗野球が十字屋運動具店が主催して(27年から市教委へ移管、今は市民スポーツ祭となる)行われるようになった。
  試合を判定する審判員も当時は各チームの中心選手が行っていた。そのころよく審判にかつぎ出された人として岩堀元次、佐野政雄(後に理事長)、佐藤正晴(中学校教諭)、四条武彦、岡根谷昇(後に会長)、吉沢二郎(後に会長)、望月好郎、石川直正(後に副会長)、前田武、森市平、それに後に県連審判部長、同理事長をやられた山下虎男の各氏などがおり、戦後の荒廃した世の中を野球で救おうと、創立間もない野球連盟の発展に大きく貢献した。

● 戦後の復活から30年代へかけて

 戦後復活されたスポーツで最も普及が著しかったのが野球であった。スタート間もないころの10数チームから、26年には20チームを越える登録が見られた。30年代にはその後長年に渡って野球連盟、市体協の会長を務められた古山先生(医師・平成元年物故)が会長に就任され、登録数も30チームを越えて徐々に世帯がふくらんできた。
  組織が確立してくると連盟が主催する大会も充実してきて、強豪チームが競って日本一を目指す天皇賜杯や国体、その他に東海五県、高松宮賜杯などの本大会を目指して支部予選が行われるようになった。
  30年を前後するころの強豪チームとして近江絹糸、西町、森永、魚市場、浅間、東京電力などのチームが挙げられる。また活躍した選手に森永の斉藤章司投手(元常任理事)は当時富士地区最高の投手と評価され、西町の市野智洋選手(元副会長)や中部相互銀行の佐野庄司選手(元理事長)などのチームの中心選手とし活躍し、現在の野球連盟の屋台骨を築いてくれた。

  しかしまだ県のトップクラスとのレベル差は大きく、田舎町富士宮では仕方のなかった時代でもある。そしてチーム数がふえてくると各チームの実力差も大きくなり、そのバランスを保つためにA級・B級・C級と分けられるようになった。
  連盟の運営を支える審判部の組織が生まれたのも30年ころからで、まだ試験をうけての公認審判制度はなく有志による集まりであった。主なメンバーとして山下虎男、佐野政雄、吉沢二郎、佐野邦博(元理事長)、関原武雄(元副会長)、佐野慶吉(元審判部、ソフトボール連盟創立時の中心者)、依田昌信(元理事長)などの各氏で、これ以後野球連盟の重要な役職につかれ、その発展に貢献している。試験を受けての公認審判員制度ができ、審判部の組織が確立されたのは38年ころからである。
  大会の運営は支部予選だけでなく、県大会も各支部に振り分けられ、34年には天皇賜杯大会を、39年には東海五県軟式野球県大会を城山公園球場(当時は市営球場と呼んでいた)をメイン球場として開催した。東海五県は以後しばらく富士宮支部での開催が続いた。
  城山球場が二中の運動場から市営球場に衣がえしたのが30年ころで、各種大会はこの市営球場を中心に、北高、農高、それに各中学校や近江絹糸のグランドなどを借りて行っていた。チーム数や大会数もそれほど多くなかったので、大会運営に支障を来すほどのことはなかった。その城山球場であるが市営球場とは言いながら役員の勤労奉仕もあって周囲にネットが張られ、本部席やダッグアウトができて野球場らしくなったのが38年である。しかし左翼80M、右翼75Mと狭く、すぐにホームランになってしまうので投手泣かせの球場であった。

● 東京オリンピック後の40年代

  39年10月10日開幕の東京オリンピックは我が国の高度経済成長に大きく影響し、高速道路、新幹線、ホテルなどようやく欧米諸国に近づき、国民のスポーツへの関心も一段と高まった。また野球を初めとするそれまで親しまれてきたスポーツ以外にも数多くのスポーツ競技が普及された。
  そんな中で、41年の選抜高校野球へ富士宮北高が甲子園に初出場したのは富士宮地区の野球、ひいては県内でも西高東低と言われた野球レベルからの脱皮に大きな刺激を与えた。44年には渡辺投手を中心とする富士宮市農協が高松宮賜杯県大会において優勝、47年には選抜中学野球県大会で川上(元中体連野球部長)、杉浦のバッテリーの富士宮二中(鈴木崇明監督)が優勝と輝かしい成績が見られた。48年には東海五県軟式野球本大会を城山球場で開催し、全国トップクラスのチームが富士宮市に集まり、天皇賜杯でも常連である中央相互銀行(愛知県)が優勝している。
  この年代の強豪チームとして前述の富士宮市農協、富士写真フイルム富士宮工場の進出で誕生し、北高選抜時のエース下村投手を中心とする富士フイルム、チーム存続も長く竹川投手が活躍した富士宮市役所、クラブチームとして長く活動を続けた上井出クラブは斉藤投手の頭脳的ピッチングが光った。

  そして草野球という言葉が何となく似合う早朝野球の誕生が40年で、以来野球愛好家ばかりでなく早朝散歩のファンもでき、親しまれている。ベテラン揃いのウォーカーズ、若手選手を集めた富士宮酒販などは早朝野球だけのチームとしてその活躍が目立った。中でも47年に早朝4大会を制した笠井畜産高野投手の速球は、まだ眠け眼の選手や審判の目までびっくりさせた。ユニホームがカラー化されたのは40年代半ばころから、これによって野球は厳しいスポーツから楽しいスポーツへ転換がはかられ、チーム数の著しい増加が目立ち、49年には69チームの登録が見られた。またこの49年には金属バットの解禁があり、これ以後より活発な打撃戦が展開されるようになった。

● 登録チームが最多だった50年代

  創立30周年を迎えた51年は各大会を記念大会として、その他記念行事を行い30周年を祝った。
  これを機に登録チーム数の急激な増加が目立ち、51年に初めて100を越えて103、52年には113、53年は102、54年は113、55年は112、56年は110、57年は104と、この7年間は100チームをオーバー、これ以後は100チームを越えることなく現在は80チーム前後が続いている。
  役員では20年の長きにわたって会長を務めた古山実会長の勇退が53年、また山下虎男氏が51年から県連審判部長、続いて59年から県連理事長(平成3年物故まで)として県野球連盟をリードした。55年には市体協のメイン行事となる市民スポーツ祭がスタートし、当連盟も今までの区対抗野球をこれにあて、同時に中学の部、学童の部、ややおくれて高校の部も取り入れた。
  明星山球場の開場も55年で以後この明星山球場を中心として城山公園球場、フイルム球場、鉄工団地球場(現物見山球場)、上井出球場、加えて高校や中学校のグラウンドなどで各大会を行ってきたが、何としてもチーム数が多くまた学校のグラウンドも借用がままならず、日程消化には苦慮した。
  この年代の主な活躍は54年の県下都市対抗野球大会で富士フイルムが優勝し、塩川監督みずから投手として相手打線を封じ、中心打者後藤一男選手(現副理事長)と兄弟揃っての活躍が目立った。55年には富士宮北高が選抜高校野球2回目の出場で初戦を突破し、甲子園に校歌が響いた。
  58年には佐野治コスモスが高松宮賜杯県大会を制し、そして特筆されるは富士宮二中(山田清治監督)の大活躍で少年野球県大会で準優勝、その余勢をかって中体連県大会が準優勝、続く東海大会で優勝して憧れの横浜スタジアムでの全国大会は城内-菅原(両君ともその後連盟A級チームで活躍)のバッテリーで準決勝惜敗の全国第3位であった。

  学童部の発足が53年で初代団長には渡辺紀氏(前市長)が就任され、以後この学童部から数多くの野球少年が巣立ち、また審判員への加入もあり、現在の選手や役員として連盟を支えている。

● 60年代から創立50周年を経て今

  60年には東海五県本大会が第35回記念大会として13チーム出場のもと明星山球場で当連盟2度目の開催となり、優勝は天皇賜杯を制したことのある小林記録紙(愛知県)であった。そして何と言っても63年、平成元年と2年続けて第8回、第9回全日本学童軟式野球大会を明星山球場ほか市内5球場で全国47都道府県の代表チームを招いて盛大に開催したのは、当連盟のビッグ大会において大会運営の実力を発揮した。
  第8回では兵庫県代表のナニワハヤテタイガース、第9回大会では三重県代表下野野球少年団が優勝を飾り、地元代表の富士根南エコーズ(稲垣八束監督)が全国の強豪に競り勝って準決勝惜敗の第3位であった。
  その他の活躍として昭和61年に富士宮二中が少年野球県大会で優勝、62年に富士根南中(渡辺喜久監督)が中部日本選抜中学校野球大会で優勝、63年にジャパン(B級)が高松宮賜杯県大会に優勝して、東海大会を勝ち抜き、全国大会(於鳥取県)に出場している。
  平成3年、4年と続けて若手選手を集めて力をつけてきた順平(現ミネオホークス)がA級4大会をすべて制し、その強さを見せつけた。6年には須藤クラブ(B級)、ヤンキース(C級)がともに東日本県大会に優勝、本大会(於福島県)に出場して、そのうち須藤クラブは全国の強豪を次々と倒して準決勝惜敗の第3位、その余勢で高松賜杯県大会、東海大会を制して全国大会(於熊本県)に出場し、その後A級に昇格して今も支部トップクラスのチームとして頑張っている。それに続いて頭角を表したのが大場機工である。チームの編成が13年、14年にはB級へ、15年の東日本県大会(B級)を制して本大会(於埼玉県)へ出場し、今はA級新興チームとして台頭してきた。その大場機工の中川捕手は平成9年に富士宮一中(川上明彦監督)が東部・県・東海のハードルを越えて、昭和58年の二中以来の全国大会(於愛媛県)に出場して、準決勝惜敗の全国第3位の好成績を収めている。

写真  また平成10年よりベストナイン表彰(A級チームより)を制定し、A級各チームがそれぞれチームおよび個人成績を目指して、さらにはB・C級チームも上を目指して各大会を盛り上げている。
  記念すべき創立50周年は平成8年、その記念式典は12月1日に小久保選手(当時ダイエー、現巨人)をはじめとする多数の来賓、関係者出席のもと、今はなきグランドホテルで盛大に開催された。さらに記念行事としてはかつての選手達が年令を経ても野球を楽しみたいとOB大会(40才以上)を新設し、以後OBチームも増加の傾向にあり、今野球は若者だけでなく熟年になっても楽しめるスポーツとして多くの人に親しまれている。
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  また長い間当連盟、県連をリードした山下虎男氏が平成3年に、学童野球育ての親で少年団団長の伊藤順造氏が平成6年、理事長として支部役員の中心になっていた佐野庄司氏が平成11年、審判部長や理事長として貢献の長かった副会長の河野福昭氏が平成12年にそれぞれ現職半ばにして逝去したのは惜しまれる。
  そして今現会長橋本和男氏を中心に多数の役員、審判員が組織を支え、青少年の健全な育成とスポーツの普及、あわせて富士宮野球連盟の発展に尽力していこうと心を新たにしている。
役員名 氏  名 備  考
会長 橋本和男 富士ブロック長
副会長 須藤秀忠 兼OB部長
峰尾 敏 県連少年部長
石川寿三
理事長 山田清治
副理事長 赤池 忠
後藤一男 兼記録部長
渡辺一敏 兼事業部長
少年団団長 牧野政博
審判部長 原野正幸
早朝部長 中村正幸
企画部長 大沢悦男
経理部長 山崎好信
事務局長 清 充男 兼少年部長
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